おんな

 雨が降っていてよかった、と思った。でなければ、この凶行は善良な市民に暴かれ、塚原たちのゲームは幕引きを迎えていただろう。
 塚原は、叫び声をあげている女性を見つめた。泣いて必死に許しを乞うている。なにを許せというのだろう。彼女はなにも罪を犯してはいない。ただ、容姿端麗に生まれ、この町に住んでいた。それだけだ。どんなに彼女が許してと叫んでも、その声は雨音に掻き消されて、夜の空に消えていくだけだった。
「そんなに顔を歪めたら、せっかく綺麗なのに台無しだろう」
 女性に覆い被さっている男は、愉快そうに女性の頬を撫でてそう言った。そしてその手で、女性の顔を殴りつける。きっと歯が何本か欠けてしまっただろう。塚原は、かわいそうに、と口の中で呟いた。死なない程度に暴力を振るわれることほど、苦しく屈辱的なことはない。さらに女性はこれから、性的な辱めを受けるのだ。いっそ殺してくれ、という気分だろう。
(どうせその後、殺すんだけどね)
 塚原はカメラを構えた。男――大外は、自分が甚振った一部始終を記録したがる。悪趣味だな、と思わなくもないが、思い出を日記にしたためる子どものようなものだろう、とも思っている。
 服を破り捨てられ、裸同然の恰好の女性の肌は、うっすらと粟立っている。雨の当たらない場所を選んだとはいえ、屋外だ。陽が落ちていることもあり、気温は低い。塚原はカメラのシャッターを切った。この張りつめた夜の空気まで映せたらいいのに。
「いやあっ、なんで、どうして……」
 ペトリコールに、体液のにおいが混じる。生臭い、何度嗅いでも慣れないにおい。愛しあう恋人同士もこれと同じ行為をするのなら、私は恋人なんていらないなあ。犯行現場を切り取りながら、塚原はそんなことを思った。


「無粋なこと訊いてもいいですか」
 タオルで髪を拭いている大外に、塚原は問いかけた。
 犯行は屋根のある場所で行っていたが、それでも終わった頃にはふたりとも濡れ鼠だった。そのまま帰ってもよかったのだが、現場が自宅から少し離れた場所だったこともあり、シャワーを浴びてさっぱりしたい、という意見が合致した。
 バスローブを羽織り、無造作に髪を拭いている彼は、一見するとただの好青年だ。いや、モデルと言っても過言ではない。
(黙っていれば、なあ……)
 手を止め、タオルを首にかけた大外は、こちらを振り向いて表情を変えずに答えた。
「なんだ」
「えっとですねえ、つまらないことなんですけど、なんでいつもアレ、使ってるんですか? どうせすぐ殺す相手なのに、わざわざ使う必要ないでしょ」
 アレ、と指差した先には、細長い避妊具の箱。整理するために広げた荷物の中から覗いていたそれが、塚原は気になっていた。
「ああ、それか」
 大外は首にかけたタオルをとって椅子に放ると、ベッドのほうへ歩いていき、座っていた塚原の隣に腰かけた。スプリングがぎしり、と音をあげ、重みで少し沈む。
「変な病気を移されたら嫌だろう」
「へ?」
「これまでの男性遍歴もなにもわからない女性を無差別に襲っているんだ。性病でも移されたら困る。そのための自衛に決まっているだろう。他になんの理由があるっていうんだ」
「あ、あー……」
 ターゲットの女性への気遣いかも、だなんて、どうして思ったのだろう。塚原は、数分前の自分を殴りたくなった。
 彼は、典型的な男尊女卑思考の持ち主だ。女性は男性よりも格下、と思っている節がある。大外がどのような思想の持主であろうと塚原にはどうでもよいのだが、腐っても自分も女だ。女性を貶める言動や行動に、思うところがないと言ったら嘘になる。行動を共にしている以上、この男にも女性を思いやる心が少しでもあるのだと思いたかったのが本音だ。
 ただ、それ以上に――。
「あの状況でコンドーム着けるの、傍から見てると間抜けなんですよ」
 ずっと思っていたのだ。大外と共犯関係になってから。初めて彼が女性を犯すところを見たとき、唯一思ったのが「コンドーム着けるのか」だった。半ば衝動的な犯行であるにも関わらず、理性的な行動が挟まれているのがなんとも奇妙だった。
 大外は一瞬表情を強張らせたが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。腹の中でなにを考えているのかわからない、仮面の笑顔だ。
「間抜けで結構。その一瞬の恥で、一生の恥を回避できるのだから、笑われる謂われはないと思うけれど」
「毎回見させられているこっちの身にもなってくださいよ。着け方とか無駄に覚えちゃいましたし」
「彼氏ができたときに役に立つだろう」
「そんな予定ありません」
 そもそもそんな気も起きないし、と声には出さずに悪態をつく。慰み者にされた挙句にごみのように捨てられる女性を見続けて、どうして自分も彼女たちと同じ存在になりたいと思えるだろう。大外が異常者なのは紛れもない事実だが、女は男に敵わないことを、塚原はよく知っている。
 大外は興味なさそうに「ふうん」と呟くと、ベッドから立ち上がり、備え付けのケトルを手に取った。先程沸かしておいた湯をマグに注いで、一気に飲み干した。熱くないのかと思ったが、ぬるい、と呟く声が聞こえたので、話している間に冷めてしまったのだろう。私にもください、と言うと、自分でやれ、と返されてしまった。けちである。
 塚原は、閉め切られた窓に視線を向けた。外はまだ雨が降り続いている。大外のストレスと性欲の捌け口にされた女性は、ばらばらに解体され、ごみ袋に詰め込まれてごみ捨て場に置かれている。明日は燃えるごみの日だから、腐敗臭が漂い始める前に回収されるだろう。
 かわいそうに。殴られる彼女を見たときと同じ言葉が、ふと口から零れ落ちた。かわいそうに。彼女はただ、巻き込まれただけだ。塚原と大外の私欲塗れのゲームに。
「憐れんでいるのか?」
 呟きが聞こえたのか、大外はそう問いかけてきた。はっと我に返る。
「耳聡いですね、大外さん」
「もうあれはただの肉の塊じゃないか。憐れまれる人間なんて、もうこの世にいない」
「たまたま私たちの目にとまってしまって、運が悪い人だったなあって思っただけですよ」
 阿鳥先輩のために、塚原は生贄を差し出し続けなければならない。彼女が大外の餌食にされたのは、塚原が彼女を見つけ、彼に生贄として差し出したからだ。要因は大外聖生だが、原因は紛れもなく、塚原音子自身だった。憐れむ資格など、ない。塚原は俯いた。覚悟が揺らぐ自分の弱さが嫌だった。
「そんなにターゲットの女が気にかかるなら」
 視界に影が落ちる。視線をあげると、いつの間にか目の前に大外が立っていた。その表情は、笑っている。よく知っている顔だ。悪だくみをしているときの笑い方。
「塚原さんが、身代わりになってあげたら?」
「……は?」
 大外はニコニコと笑っている。嫌な汗が背中を伝い落ちる。塚原は負けじと口角を持ち上げた。
「私みたいな背が低くて寸胴な女は、好みじゃないんじゃなかったですか?」
「ああ、全くそそられないね。でも」
 とん、と肩を強く押される。塚原の体は呆気なく倒され、背中に柔らかい布団の感触を受けた。突然のことに、反応が遅れる。
「な、なにを」
「君みたいな強気な女を屈服させるのも、なかなかおもしろそうだ」
 ざあっと全身から血の気が引くのがわかった。この男ならやりかねない。だが、ここで泣いて懇願できるほど、塚原は諦めのいい人間ではなかった。
「やれるもんならやってみろ」
 言ってから、しまった、と思った。が、遅い。大外は塚原の両腕を頭上でまとめ、左手で押さえつけると、右手でパスローブの紐の結び目に触れた。
「初めてだろうから、せめて優しくしてやろうと思ったんだけどな」
 大外とホテル――所謂ラブホテルというやつだ――に泊まるのは、今回が初めてではない。終電を逃した際に、やむを得ずふたりで泊まった。成人男性と同じベッドで眠ることになにも思わなかったわけではないが、自分が大外の好みではないことはわかっていたので、あまり警戒していなかった。そしてそれ以上に、大外はなにもしないという確信があったのだ。黄昏ホテルで言葉を交わした彼は、自分を買ってくれていた。そして現在、塚原は大外の共犯者であり、唯一彼の本当の姿を知る人間である。そんな相手になにかしようなど、きっと考えないだろう。そう思っていた。
(甘かった)
 大外聖生という人間をわかったつもりでいた。塚原は、彼が本気を出したら抵抗できない。結び目が解かれる音がする。塚原はぎゅっと瞼を瞑った。夕陽が照らす世界で一方的に受けた暴力を思い出し、体が硬直する。こわい。だが、素直に「こわい」と言えたなら、塚原はここにはいないのだ。
「……ぷっ」
 笑い声が聞こえたかと思うと、両腕の拘束が緩んだ。恐る恐る瞼を開けてみると、大外は手をとめて肩を震わせていた。
「ふ、はは、冗談だよ塚原さん、ははっ、本気にしたんだ?」
「は、あ?」
「僕が君みたいなちんちくりんに勃つわけないじゃないか。あは、おかしい……」
「ふ、ふざけ――」
 からかったのか! こんな、笑えない冗談で!
 恐怖と怒りで声が震えた。大外は、堪えきれないといった様子で、腹を抱えて笑っている。
「わ、私、もう寝ますから!」
 そう宣言して、塚原は布団に潜り込んだ。大外の顔を見たくなかった。
 罵倒してやりたい。ふざけるな、と襟ぐりを掴んで、怒鳴りつけてやりたい。私はお前の玩具じゃない。そう叫んでやりたい。だが、それは無意味だ。
 大外にとって、私もただの“女”だったんだ。
「はいはい、おやすみ」
 何事もなかったかのように、彼はそう挨拶をして、部屋の電気を消した。他人の体温が布団の中に入ってくる。あたたかい。
 塚原は声を殺して泣いた。積み上げた肉塊の横に墓標を突き立てられた。肉になった女たちの叫びが、身に染みるようだった。

2018.01.20