午後5時過ぎのバー

 暮れなずむ空を見つめる。西に沈む赤が空を染めている。まるで血の海のようだ、と塚原は思った。
「塚原さん」
 後ろから声をかけられ、振り向く。トレイを手にした好青年が、眉根を寄せて立ち尽くしている。
「あ、ありがとうございます。大外さん」
 テーブルに置いていた鞄をどけると、大外は持っていたトレイを置き、高めの椅子に腰をかけた。塚原は、トレイの上からストローの刺さったグラスをとる。気泡がきらきらと夕陽を反射した。
「ジンジャーエール、いくらでした? あとで払います」
「別にいいよ、これくらい」
「大外さんにしては優しいですね」
「僕はいつでも優しいだろう?」
「ご冗談を」
 グラスの中身を吸い込むと、口の中で炭酸がぱちぱちと弾けた。この刺激と爽快感が好きなのだ。ちらりと横に座る男を見ると、洒落たカップでコーヒーを啜っていた。
 ふと、狭間の世界の彼と横顔が被る。カウンター席に足を組んで座り、コーヒーを嗜むその姿は、黄昏に染まったバーでいつも同じ席を陣取っていた彼を思い出させる。ホテルで言葉を交わした大外と、今こうして隣にいる大外は同一人物だが、少し違う。塚原は覚えている。彼と交わした他愛ない会話を。トランプを分ける指先を。心の底に秘めた、彼の切ない激情を。
「そんなに見つめないでもらえるかな。穴が開きそうだ」
 はっと我に返り、視線を逸した。大外は愉快そうに、こちらを見て笑っている。
「万が一にも惚れないでくれよ。さすがに君を彼女に加えるつもりはない」
「そんなの、こっちからも願い下げですよ」
 言って、咽喉の奥に閊えた懐かしさを炭酸と共に流す。
 こんなふうに思い出してしまうのは、この店があの場所にどことなく似ているからだ。塚原は窓ガラスに映り込んだ店内を見つめた。昼間はカフェ、夜はバーになるこの店は、大外が彼女とよく来る場所らしい。塚原も大外に連れられて何度か来たことがあるが、カフェタイムに訪れるのは今日が初めてだった。
 黄昏時の店内は、まるでホテルに併設された彼のバーそのものだった。
 カウンターに並ぶ酒瓶と、ハンガーに吊るされたグラスたち。しっとりとしたジャズが流れる空間。大きなツノを生やした彼女が現れてもおかしくない、と思う。どこのバーも似たようなものなのだろうか。
 もしも、と考える。
 もしも、あの場所に戻ることができたら。トランプゲームをして。紅茶を飲んで。まるで、修学旅行の電車の中みたいに、笑いあって。
 そうして私は、彼に銃口を向けるのだろうか。
(やめよう、こんなことを考えるのは)
 自分の行動が、選択が、正しかったとは言えない。けれど、そのときその瞬間、自分の信念に基づいて動いていた。過去の自分を否定はしないが、罪は背負わなければならない。
 ――最大の罪は、彼を見捨てられなかったことだ。
 気付かれないよう、ちらりと横顔を盗み見る。端整な顔立ちだ。整った仮面の下に隠された暗い闇を、塚原は知っている。彼の大きすぎる孤独に、塚原は非情に成りきれなかった。
(だから……)
 グラスに残ったジンジャーエールを一気に煽り、夕陽に照らされたあたたかい思い出を振り払った。
 毒を喰らわば皿まで。私は堕ちる。陽の届かない、地獄の底まで。

2018.02.06