渡せなかった恋ごころ

 薄力粉を丁寧にふるいにかける。オーブンのスイッチを入れると、私は「よし!」と気合を入れた。
 二月十四日。バレンタインデー。そして、私の初恋の人の誕生日。
 彼とは、生と死の狭間、黄昏ホテルと呼ばれる場所で出会った。彼――阿鳥くんはひとまわり年上だけれど、あの場所では私のほうが先輩だった。阿鳥くんは私のことを「ルリさん」と呼んで、年下にも関わらず、先輩として慕ってくれた。
 ――そして、私の命を救ってくれた。
 チョコレートとバターを湯煎で融かす。温度管理を間違えたら一巻の終わり。集中力を要する作業だ。焦がさないよう、湯がボウルに入らないよう気をつけながら、優しくかき混ぜていく。
 阿鳥くんは、現世でもホテルのコンシェルジュをしている。それも、かの有名なハミルトンホテルで、である。私のような田舎の女の子がおいそれと会える相手ではないのだが、ホテルでアルバイトをしている塚原が場をセッティングしてくれたお陰で、何度か話をすることができた。彼女にはとても感謝している。絶対に素直に本人には言えないのだけれど。
 泡立てた卵黄と、溶かしたチョコレートと混ぜ合わせる。黄色と茶色が混ざり合って、滑らかな生地になっていく。
 私は、あの場所が好きだった。阿鳥くんはもちろん、塚原のことも好きだった。過去形ではない、今も好きだ。支配人のことも、あまり接点はなかったけれど瑪瑙さんのことも好き。黄昏ホテルは、優しい場所だった。臆病者の私を、みんなが受け入れてくれた。笑いかけて、話しかけてくれた。
 メレンゲを足して混ぜた生地を、型に流し入れる。手順通りに作った。あとは綺麗に焼けるのを待つだけ。とんとん、と空気を抜いて、あたたまったオーブンに容器を入れる。上手に焼けますように。
 オーブンの中でくるくるとまわる〝ケーキになる予定のもの〟を、頬杖をついてぼうっと眺める。あんなにもみんなは優しくて、あたたかくて。もう一度頑張ってみよう、と思えたのに。どうして私は、臆病者のままなのだろう。
 チン、と焼けた音が鳴り、はっと我に返る。時計を見ると、いつの間にか四十五分が過ぎていた。すぐにオーブンを開け、竹串で焼け加減を確かめる。よし、大丈夫。型からケーキを取り出して、ケーキクーラーの上に置いた。きっとおいしくできているはず。
 一度、約束もしていないのに、阿鳥くんに会いにいったことがある。私は携帯電話を持っていないので、阿鳥くんと連絡がとれない。塚原とのように文通をするという方法もあったけれど、黄昏ホテルでの記憶がない彼に住所を聞くことは憚られた。私は、彼がハミルトンホテルで働いているということしか知らない。それだけの知識を頼りに、私はホテルの入口までやってきた。
 彼は、おとなの男性だった。社交的な笑顔を浮かべ、客をエスコートする。黄昏ホテルでも、彼はとてもスマートなホテルマンだったが、その比ではなかった。客は阿鳥くんの接客に満足げな顔をし、近くにいる女性たちは彼の容姿や立ち居振る舞いに目を奪われていた。
 あんなにも近かったはずの阿鳥くんが、とても遠い。
 結局私は、彼に会うことなく、帰りの電車に乗った。
 カチカチ、と秒針が音を立てる。いつの間にか日付は変わっていた。さよなら、私の初恋。
「ハッピーバースデー、阿鳥くん」
 冷めたケーキにフォークを刺した。塩なんて入れていないはずなのに、なぜかほんのりとしょっぱかった。

2018.02.15