僕の足元には、人間だったものが転がっている。ついさっきまで、生きていた。呼吸をしていた。心臓が動いていた。けれど、死んだ。死んでしまった。僕が、殺した。
 この名前も知らぬ人間を殺す権利を僕が持っているのかと問われたら、否だ。僕は誰かを殺す権利など持っていないし、この人間だったものも殺される理由などありはしない。ただ、出会ってしまった。擦れ違ってしまった。ただ生きていただけで殺された自分の不運を、どうかあの世で存分に嘆いてくれ。
 淡々と屍を解体する。袋に詰め、適当な場所に捨てるため。きっとこの肉塊にも家族がいただろう。友人がいただろう。恋人がいただろう。突如として奪われた未来に、人々は涙し、そして僕という災厄を恨むのかもしれない。
 僕とは大違いだ。きっと僕が死んでも、誰も悲しまない。
 腹の底から胃液が競りあがってくる。僕は手をとめ、体を小さく折って嘔吐いた。さあっと全身から血の気が引く。僕がこの肉塊だったとして、一体誰が僕の身を案じてくれるのか。ガタガタと全身が震え、思わず地面に座り込んだ。
 お父さん、お母さん。僕が死んだら悲しんでくれますか。どうか彼岸でも健やかであれと願ってくれますか。涙を流してくれますか。
 血に染まったナイフの切っ先を内腿に当てる。力を込めると布地が裂け、その下の皮膚が鉄の冷たさに粟立った。細胞が死滅する感覚。表面の皮がぷつぷつと裂けてゆき、得物は脂肪へと到達する。脳が痺れる。麻薬に溺れるような、気だるい快感が全身を支配する。割れた肉の狭間、露わになった脂肪の壁から、血液が涙のように溢れ出す。ほう、と、甘い吐息が唇から漏れ出た。
 力加減を間違えれば、大腿動脈を傷つけて即死。死にたいわけではない。まだ、生きていたい。たとえ死が目前に迫ってきたとしても、僕は最期まで足掻き続けるだろう。けれど、僕自身が僕の人生を掌握していると感じられるこの瞬間は、嫌いでないのだ。
 ドクドクと血は流れ続ける。帰らなければ。鞄の中から包帯を取り出し、足の付け根に巻きつけた。傷口は比較的浅い。滴り落ちることはないだろう。上着を羽織ってしまえば見えない箇所。この僕が自傷行為に耽っているなど、あってはならない。
 手早く肉を掻き集め、袋に詰めた。仕上げに、ナイフに付着した赤を拭きとる。この血は、彼のものか、それとも僕のものか。血と血が混じりあう。もしかしたら感染症に侵されてしまうかもしれないなあ、と他人事のように思った。それでも僕は明日も生きるのだろう。名も知らぬ屍を積み上げて、生きていくのだろう。

2018.02.19