特上一貫183円

「ねえ、音子ちゃん」
 目の前でビールを煽ってる彼女の名を呼ぶ。彼女――塚原音子は、握っていたジョッキをテーブルに置くと、「なんでしょう、阿鳥先輩」と返した。
 ――阿鳥先輩。彼女は阿鳥のことを、そう呼んでいる。
 阿鳥が塚原と出会ってから、一年程になる。交換研修で訪れた横浜のホテル。そこに彼女はいた。それが阿鳥遥斗と塚原音子の初邂逅――というわけでなく、正確にはお互いに名乗り合うよりも前、とある駅のホームで彼女とは一度顔を合わせている。彼女はなぜかその頃から阿鳥の名を知っており、後日阿鳥は、彼女の口からその理由と、俄には信じがたい自分と彼女の壮大な物語を聞かされることになるのである。
 黄昏ホテル――その存在はあまりにも非現実的で、けれど自分しか知り得ないようなこと、ましてや十程も年齢が離れた女の子に話すはずもないようなことを当然の如く知っている彼女の存在そのものが、語られた物語がノンフィクションであることを証明していた。
 本当は、死んでいるはずだった。けれど、死ぬはずだった未来はひとりの少女によって書き換えられ、今、阿鳥遥斗の心臓は動いている。彼女は「起きなかった過去の話」と称したが、その起きなかった過去によって縁が結ばれ、今この場に繋がっているのだと思うと、記憶のない阿鳥にとっては少々複雑な思いだ。
 そんな阿鳥の心境など露ほども知らず、目の前の少女は小首を傾げている。ついこの間成人したというのに、彼女は未だに少女と呼ぶに相応しい風体だ。彼氏のひとりでもできたら変わるのだろうか。いや、そうなったらこうして居酒屋でふたり、顔を突き合わせる時間もなくなってしまうのかと思うと、少し寂しい気もする。
「なんなんですか、阿鳥先輩。自分から声をかけておいてだんまりはないですよ」
「いやいや、ごめん。あのさ、音子ちゃん」
「はい」
 口を開き、一瞬言い澱む。今、彼女に言おうとしていることは、さながら粘着質で面倒くさいガールフレンドのような内容でないか、と思考する。いやいや、塚原だって阿鳥に同じことを要求し、そして阿鳥は飲んだのだ。それをそのまま返してなにが悪い。
「その、阿鳥先輩っていうの、そろそろやめない?」
「阿鳥先輩は阿鳥先輩ですよ」
 さらりとかわされる。だがここで引き下がるほど、阿鳥遥斗という男は無欲ではないのだ。
「いや、うん。だからね、そろそろ音子ちゃんも、俺のこと名前で呼んでくれない?」
 言って、彼女の表情にぎょっと目を剥いた。普段からあまり表情豊かではない彼女が、明らかに顔を強ばらせている。往々にしてこういった話題の場合、照れ、あるいは動揺を見せることを想定するだろう。しかし彼女のそれは、明確に拒絶だった。
 独特な喧騒が、耳に入ってこない。阿鳥は慌てて口を開いた。
「ご、ごめん、無理には――」
「すみません」
 被せて、謝罪を告げられる。
「パイセンはパイセンで、目上の人ですし。敬意を持って接しないと」
 そう言って、塚原は「わはは」と笑った。
 誤魔化された。はぐらかされた。わかってはいるけれど、なぜ、と追及することは憚られた。
「音子ちゃんの日々の態度から、全く敬意なんて感じられないんだけど」
 彼女が望むのなら、阿鳥はそれに乗るだけだ。塚原は、阿鳥の知らない「なにか」を抱えている。それは「起きなかった過去」の自分なら知っているのかもしれない。けれどもう阿鳥には、それを知る術はなかった。

 
 足音が消えたのを確認して、上体を起こす。緊張していたのだろう、全身から力がどっと抜け、その場に倒れ込みそうになるのをなんとか堪えた。
 外科の名医として有名な大外夫妻は、阿鳥の、そして阿鳥の勤めるハミルトンホテル東京のお得意様である。彼らはホテルに宿泊するたびに、担当に阿鳥を指名し、そして時たまプライベートでも食事に誘ってくる。気は乗らないが、断る理由もなく。むしろ誘いを断れば、贔屓にしてやっているのにと角が立つ。どうせ全額奢りなのだから、食費が浮いたと思えばいい。そう言い聞かせて、これまではそれなりに楽しく、彼らと共に美食に舌鼓を打ってきた。
 だが、彼らの息子――大外聖生という青年の存在を塚原に教えられてからは、夫妻と会う時間は阿鳥にとって、苦痛以外のなにものでもなくなってしまった。
 大外聖生。阿鳥はその男の顔を知らない。息子の存在を語りたがらなかったのか、夫妻から話を聞いたこともない。阿鳥はその男にストーキングされ、そして最終的に殺されたらしい。ただ、殺された事実は塚原によって「なかったこと」にされ、阿鳥は今も生きているのだが。
 塚原がどのような方法で大外聖生を阿鳥から遠ざけたのか、詳細を阿鳥は聞かされていない。正直なところ、阿鳥自身はその大外聖生という男にさして興味はない。ストーキングされていたとしてもそれは過去の話であり、その存在がいなくなったらしい今、自分の生命が脅かされる心配もない。
 ただ、「あいつは地獄に堕ちました」と言ったときの塚原の表情が、脳にこびりついて離れないのだ。憎しみと、憐れみと、怒りと、阿鳥には計り知れない深い深い感情が綯い交ぜになった彼女の瞳に映るのは、目の前の自分でなく、生と死の狭間の世界の、燃えるような赤い夕陽なのだ。その夕焼け空を、阿鳥自身は知らないのだけれど。
 自分の知らない自分がいる。彼女が命懸けで守った自分は、今ここで生きている阿鳥遥斗でなく、大外聖生に殺された阿鳥遥斗なのだ。この感情をなんと表現したらよいのだろう。黄昏ホテルにいた自分に訊きたかった。
 気だるい体を引きずりながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。無性に、塚原の声が聞きたい。慣れた手つきで彼女の連絡先を呼び出すと、通話ボタンを押した。数回のコール音。
「……もしもし」
 電話口の彼女の声は、疲れ気味に聞こえた。
「ごめん、突然。忙しかった?」
「いえ、予備校の宿題に行き詰まって、今は夜風に当たっているところです」
 塚原は今、警察官になるための勉強に追われている。短期大学に進学した塚原には、Ⅱ類の採用試験が適用されるのだが、これが他と比べても狭き門なのである。採用試験を実施しない年もあり、一発で通らないことには次にいつ募集がかかるかわからない。そのため彼女は予備校に通い、机に向かって勉強の日々を送っているらしい。先日のように、たまに息抜きと称して飲みに行くと「人生で今が一番勉強してます」などと愚痴を零しているが、諦める気は毛頭ないようで、阿鳥はその姿に励ましの言葉をかけてやる他ないのだった。
「それにしても、どうかしましたか。パイセンから電話なんて、珍しいですね」
「そうかな」
「そうですよ。パイセンって、発信履歴はたいしてないくせに、着信履歴だけは辿れないほどにあるイメージです」
「さすがに電話番号は教えてまわったりしないよ。渡すのはメールアドレスくらいで」
「賢明ですね」
 軽口の応酬をしていると、すうっと体が軽くなっていく。やはり、塚原と言葉を交わすのは好きだ。阿鳥に近づいてくる女性たちの大半は、下心があった。阿鳥とて、女性が嫌いなわけでない。だが、彼女たちが求めているのは、阿鳥遥斗という幻想。偶像。彼女たちの脳内が作り出した、幻の男。その夢から醒めた彼女たちは、次々と阿鳥のもとを去っていく。その点、塚原は阿鳥遥斗がいかなる男かを知ったうえで付き合ってくれる、貴重な人物だ。さながら、チュートリアルを飛ばしたゲームのように。楽だ、と思う。同時に、飛ばされたチュートリアルを、阿鳥遥斗と塚原音子の出会いの物語を、知りたいと、経験したいと思うのは、傲慢なのだろうか。
「音子ちゃん、今から暇? ちょっと飲みに行こうよ」
 尋ねながら、頭のスケジュール帳を確認する。明日は完全オフの予定だ、少しくらいはめを外しても問題はない。既に二十一時をまわってはいるが、息抜きを欲している彼女のことだ、きっとこの誘いに乗ってくる。
 そう踏んでいたのに、返ってきたのは断りの返事だった。
「せっかくのお誘いですが……」
「そっか、気にしないで」
「本当にすみません。ありがとうございます」
 その後、いくつか他愛ない会話をし、彼女との通話は終わった。彼女の顔を見て話をしたら、この腹の底に溜まったモヤも晴れるかと思ったのに。残念だが、仕方がない。考えながらICカードを改札に翳し、ホームへの階段を降りる。
「……え」
 そこには、先程まで電波を介して会話をしていた彼女が佇んでいた。
 彼女との距離は遠く、その表情ははっきりとはわからない。けれど、ふわりと切り揃えられた髪が風に揺らぐたびに覗く眼孔は、ここではないどこかを、まっすぐに見据えていた。
「     」
 彼女の唇が動く。日曜日の夜だからなのか、ホームには他に誰もいない。阿鳥は足音を立てないように、そっと彼女に近付いた。声をかけることは、なぜか躊躇われた。
「見てますか、大外さん」
 呟きが耳に届き、反射的に足がとまる。
「あなたのいない世界は、毎日が平和です。阿鳥先輩も、元気ですよ。あなたがいなくなってくれたおかげです。そっちは楽しいですか……、って、楽しいわけないか。自分が苦しめてきた人たちのぶんも、苦しめばいいんですよ」
 そういえば。塚原と初めて会ったのは、この駅のこのホームだったと、ふいに思い出した。空が赤く染まり、地面が割れ、断末魔がこだましたあの異様な空間。後にそれが所謂地獄であると、阿鳥は身を持って体験することになるのだが。そうか、あのときに、塚原は大外聖生を葬ったのだ、と、唐突に理解した。パズルのピースが、頭の中で繋がっていく。
「あなたのこと、かわいそうだなんて思いませんよ。私は私のしたことを悔やんだりしない。あのときの判断は、あれが最善だったと、今でも断言できます。……ああ、そういえばこの間、阿鳥先輩に名前で呼んでほしいって言われましたよ」
 バクバクと、心臓の音がうるさい。
「遥斗さん、なんて、一体どんな気持ちで口にすればいいんですか」
 ああ、そうだったのか。
 これは、阿鳥遥斗と塚原音子の物語ではない。生と死の狭間から続く、塚原音子と大外聖生の物語だ。死んで黄昏ホテルに行った、存在しない阿鳥遥斗ですらなく。
 音子ちゃんが俺を助けたのも、警察官を目指すのも、俺の名前を呼べないのも、全部、全部――。
「音子ちゃん」
 名を呼ぶと、彼女はびくりと全身を跳ねさせて振り返った。どうしてここに、と言いたげな表情。ただの偶然だよ、と言いたいところだけれど、きっとこれは必然。物語を書き換えるための、神が仕組んだ粋ないたずら。
 カンカンカン。踏切の音。プァン、と気の抜けるような音を鳴らしながら、鉄の塊が滑り込んでくる。「阿鳥先輩!」背中で呼ぶ声がしたが、聞こえないふりをした。静止の手に阻まれないよう、全速力でホームを駆け抜け、砂利と剥き出しの軌条に向かって跳躍。
 狭間の世界があるのなら、そこからもう一度やり直そう。俺と君の物語を。きっとホテルのロビーで待っているから、はじめましての握手をしよう。
「またね、音子ちゃん」

2018.03.12