四月一日

 学年末のテストが返ってきた。国語、算数、理科、社会……なまえ順に呼ばれては、担任の先生から手渡される答案用紙。あと、残り一教科。ああ、神様。どうか、ミスなどしていませんように。
「大外聖生くん」
「はい」
 ドキドキと高鳴る胸を押さえて、僕は先生のもとへと小走りで向かった。先生は僕の顔を見ると、ニコリと微笑む。
「大外くん、よく頑張ったね! 全教科、満点!」
 はい、と渡されたそれには、花丸が描かれていた。最後の一枚。これで、花丸コンプリートだ。飛び跳ねて「やった!」と叫びたい衝動に駆られる。嬉しい。嬉しい!
「ありがとうございます!」
 喜びのあまり、紙を握りしめてクシャクシャにしてしまわないよう気をつけながら、僕は自分の席へと戻った。満点をとることは初めてではない。けれど、全ての教科で満点をとるのは、今回が初めてだ。
 早く家に帰りたい。帰って、お母さんに報告したい。全部百点満点だったよって。そしたらきっと今日こそは、「えらいね」って褒めてもらえるかも。
 こんなに放課後が待ち遠しいのも、初めてだ。

 ホームルームが終わると、僕はランドセルをひったくるように掴んで、教室を飛び出した。記憶違いでなければ、今日は、お母さんは仕事が休みだったはず。呼び出されて出勤しているなんてことがありませんように、と、何度も何度も心の中で唱えながら、通学路を息を切らせて走った。ああ、なんて僕は足が遅いんだ。運動だけは、いくら頑張っても上達しやしない。
 肩で呼吸しながら、なんとか自宅に辿り着く。玄関のドアに手をかけると、指先が小さく震えていることに気付いた。僕は、緊張している。お母さんにいてほしいような、だけれどいてほしくないような、やっぱりいてほしいような、複雑な気持ちがぐるぐると巡る。
 ここで悩んでいたってしょうがない。えい、と勢いをつけてノブをまわす。
 中に入ると、家の中はしんと静まり返っていた。お手伝いさんは、どうやら一度帰宅しているようだ。三和土には、黒いパンプスが一足。
 ──お母さんが、家の中にいる。
 ドクンドクン。まるで全身が心臓になってしまったみたいに、頭のてっぺんからつま先までが、鼓動と一緒に震えている。僕は一度深呼吸をすると、靴を脱いで揃えて置いた。きっと彼女は、書斎にいることだろう。
 長い廊下を、足音を立てないように静かに歩き、目的の部屋の前までやってきた。ドアの向こうから、微かに物音がする。きっと、お母さんはこの扉の先にいる。すー、はー。深呼吸。よし。
 コン、コン、コン。ノックは三回。
「……どうぞ」
 ややあって、中からそう呼びかける声が聞こえた。「失礼します」と一言置き、僕はその重いドアを開いた。
 重厚なデスクに座ってキーボードを叩いている彼女に、まず僕は「ただいま戻りました」と挨拶をする。挨拶は大切なコミュニケーションだ。お母さんは見つめていたモニターから視線を外すと、僕のほうを向いて「おかえりなさい、聖生さん」と言った。
 ああ、どうしよう。やっぱり言わないほうがいいのかもしれない、という気持ちが、じわじわと侵食してくる。けれど、一生懸命に頑張ったのだ。その成果を報告したい。そして「えらいね」と褒めて、頭を撫でてもらえたい。僕はぎゅっと拳を握りしめて、「お母さん」と呼びかけた。
「今日、この間やったテストが返ってきたんです」
「そう」
「それでね、それで……」
 言ってしまえ!
「全部の教科で、百点がとれたんです!」
 ……言ってしまった。
 くだらないことだと、あしらわれるだろうか。当たり前のことを報告するなと、叱られるだろうか。でも、だけど、今日くらいは、少しくらいご褒美があったっていいじゃないかと、思ってしまう僕は欲張りだろうか。
 お母さんはキーボードから手を離すと、椅子から立ち上がった。ギィ、と軋む音がする。ゆっくりと近付いてくる彼女に、僕はまるで裁判長から下される判決を待つ被告人のような気持ちになった。膝が、震える。
「よく頑張ったわね」
 ふわり、と、体があたたかいものに包まれる。数秒経って、抱きしめられているのだと理解する。お母さんが、僕を抱きしめている。お母さんの腕が、僕の体を抱き寄せている。「えらいわ、聖生さん」彼女の声が、耳元で聞こえる。
 ああ、ああ、僕は、このために頑張ってきた。喜びで全身が満たされていく。この瞬間のために生きてきた。なんて僕はしあわせなのだろう。
 これで僕は──。


 目を開けると、見慣れた天井。カーテンの隙間から、ほんのりと光が差し込んでいる。ぼんやりとした意識が覚醒していく。ああ、夢だったのか。
 ベッドから起き上がり、カーテンを開けた。今日から新年度。春休みが明けたら、昨年度同様、また講義とレポートと実習に追われる日々が始まる。医学を学ぶことは嫌いではない。ただ、とてつもなく憂鬱だった。一体僕は、なんのために、必死になっているのだろう。
 ねえ、神様。いるのなら教えてくれ。抱きしめてもらえなかった僕に、一体価値はあるのかを。残酷で優しい嘘の世界で満たされた、幼い僕になる方法を。

2018.04.01